2023/12/31

                                12月の記事


あげる・してあげる …  今や、「あげる」は謙譲語ではない   

オランダの冬    …  オランダの飢餓で生じた肥満体質は遺伝したという

ほうれい線     …  女性たちよ、ほうれい線を気にするな

ムクドリの警戒心  …  ムクドリはカメラを極端に警戒する

気味悪い人     …  1人でぶつぶつ言っている気味悪い人が増えてきた

茶々のセリフ    …  大河ドラマの茶々のセリフへの疑問

裏金社会      …  この日本でマスコミは政界の裏金を知らなかったのか?

晩秋        …  柿の葉はすっかり落ち、ムクドリも来なくなった

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                                  晩秋


 私が若かった頃、「秋は枯葉が散り、草が枯れる寂しい季節だ」とよく言われた。私はそれに反発して「いや秋は米や果実が実る、稔りと収穫の季節だ。そして野山の樹々が色とりどりに粧う豊かな季節だ」と言っていた。私の言い分が間違っていたとは今も思っていないが、この秋はわびしさ、淋しさも感じたのだった。

 10月頃、まだ我が家の柿の実も充分に熟していない頃から、柿の葉が散り始めた。柿の木は我が家の敷地の端っこにあるので、散った柿の葉は家の前の路地と我が家の駐車場に広く散らばった。本当なら毎日掃除をすべきだったのだろうが、面倒なので、週2回、可燃ゴミの収集の前日に掃除をしていたのだが、1回にゴミ袋の三分の一か四分の一になるほどの量だった。しかし、それも11月の半ば頃から徐々に減っていって、私は掃除をするたびに私は寂しい思いをしたものだ。

 しかし、落ち葉が最盛期を迎える頃からムクドリがやってきて、木の高いところに残っている柿の実をついばむようになった。彼らは数百羽の群れで行動していて、そのうちの2~30羽が柿の木に群がり、残りはその付近の電線に等間隔できれいに並んでいたものである。そしてけたたましい鳴き声を立て、それは家の中で音楽を聴いている私にもやかましく感じられるほどだった。ところが、それも2~3週間のことで、彼らが柿の実を食べ尽くすともう姿を見せることはなくなった。私はそのなりゆきにも寂しさ感じるようになった。

 そして、12月中旬の今、我が家の周りには、時折、スズメやカラスが姿を見せるだけで賑やかな鳥の群れは来ない。時折、どこかで鋭いモズの声はするのだが、私はまだモズの姿を見たことはないのだ。

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                                   裏金社会


 安倍派のパーティー券収入の一部がそれを販売した議員に環流し、収支報告書に記載されずに裏金として使われていたのだという。それが大問題になって安倍派の4閣僚は更迭されたが内閣支持率は急落し、。昨日は東京地検特捜部が派閥の事務所を家宅捜索したという。

 裏金造りについては、そういうこともあっただろうと、私は驚きもしないのだが、マスコミはまるで初めて聞いたとんでもないことのように大騒ぎしている。もちろん、それは法律に違反することで「とんでもないこと」には違いないのだが、「番記者」などを配置して綿密な取材態勢を強いているマスコミがそれを知らなかったとは私には思えない。先のジャニー喜多川氏の「性加害」事件で、事務所に忖度したマスコミがそれを報道しなかったとの批判が行われたが、今回の場合はそれ以上にマスコミと政党の癒着があって、マスコミは裏金に目をつぶってきたに違いないと思うのだ。

 というよりも、この日本社会ではどんな組織にも裏金が存在するのだと思う。かく言う私自身、高校教員だった頃、裏金を扱ってきた。例えば生徒に業者の模擬テストを受けさせる場合、それは土、日に行われ、その監督には担任団の先生が当たる。しかし教員の場合、時間外の勤務に手当は出ない。かといって業者から監督料を受け取れば「兼職兼業の禁止」に違反することになる。だから、業者からキックバックを受けて1日五千円とか一万円とかの監督料をその先生に配るのである。それは公然の秘密ではあっても、表には出せない裏金なのだ。

 だから、今回の事件でも裏金の存在だけではなく、その使途にまで迫って欲しい。そうでなければ政界の闇にメスを入れることにはならないだろう。

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                                  茶々のセリフ


 「正々堂々と戦うこともせず、万事長き物に巻かれ、人目ばかりを気にし、陰でのみ嫉み、あざける。(この国は)つまらぬ国になるであろう。やさしくて卑怯な、か弱き者の国に」。これは大河ドラマ「どうする家康」で、大阪夏の陣に破れて滅亡する豊臣の最後に遭遇した茶々のセリフだそうだ。私はこのドラマを見ていないので単なる想像だが、おそらく権謀術数を駆使して天下を取った家康と、その家康に寝返った豊臣家の家臣達を見た茶々の、呪いを込めた述懐であろう。このセリフがまさに日本の現状を言い当てているとネットで話題になったのだそうだ。私がこのセリフを知ったのも、それを報じるネットニュースを読んだからである。

 かつて私は大河ドラマは単なる電気紙芝居だと軽蔑してきた。そこには歴史の大河のうねりもなければ人間ドラマもなく、単に豪華な俳優を揃えてきれいな絵柄を作るだけ、主人公を正当化するだけの絵物語でしかないと感じていたからだ。ところが、「晴天を衝け」や「鎌倉殿の13人」、そして今回の「どうする家康」などでは少し変わってきたような気がする。私はどれも年に数回しか見ていないので偉そうなことは言えないが、多少は人間ドラマも描かれるようになったように思う。

 でも、歴史を描くという点ではどうだろう。今回の茶々のセリフにしても、本当に彼女がそう感じたという根拠はあるのか、シナリオ作家の古沢良太さんが日本の現状に対する認識を過去に投影しただけではないかという気がする。ドラマはドラマであって歴史ではない。でも、歴史的な素材を扱う以上、歴史に迫る努力はして欲しい。大河ドラマが単なるゲームのように「取った」「取られた」だけの世界では意味がないと思うのだ。

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                                    気味悪い人


 昔、私が大阪に住んでよく環状線を利用していた頃、駅のホームで1人ぶつぶつ何かをいっている人を見かけて気味悪い感じを受けることがよくあった。たいてい誰かに文句を言っているような感じなのだが、周囲には誰もいないのだ。ちょっと頭がおかしいのではないか、そんな人に近づいたら、不意に線路へ突き落とされるのではないか、あるいは刃物で刺されるのではないかと警戒してできるだけ近づかないようにしたものだ。そういう人の近くに誰もいなかったのは、誰もが私と同じように感じていたからだろう。

 その後、電車を利用することが少なくなって、そういうことはなくなっていたが、最近また、大きな声で何かをしゃべったり、笑い声を立てたりしながら私の家の前を通り過ぎていく人を見かけるようになった。たいていは自転車に乗っていて、年格好からすると20才前後なので、滋賀大の学生ではないかと思っている。しばらく気味悪かったのだが、最近になって携帯電話で会話をしたり、お笑い番組を聞いて笑っていたりするのではないかと気づいて、一応は納得した。

 とはいえ、こういう現象は将来の気味悪い社会の予兆ではないかと考えると空恐ろしくなる。これまで同じ場所にいる人は最低限の状況を共有しているという安心感があった。例えば駅のホームにいる人ならみんな電車を待っているという意味で、仲間だった。ところが個々人が携帯機器で別々の何かとつながるようになれば、周囲の人々は何を考えているか分からない不気味な人間集団になってしまう。それはひとりふたり頭のおかしい人がいるというレベルの話ではない。私たちはこれからそんな社会を生きていかなければならないのだ。

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                                   ムクドリの警戒心


 今年は柿が豊作だった。私の家にも柿の木があるのだが、そこになった柿は私や妻が食べきれる量ではないので、何度かに分けて知人に配った。それでもまだ柿の木の高いところには百個以上の柿が残っているのだが、梯子も届かないので、それは放置している。

 その柿の木に最近1日に何度か2~300羽のムクドリが群れでやってくるようになった。鳥たちはお互いによい実を食べようと競い合っているかのように、ジジ、ジジジ、と騒いで実に騒々しい。騒いでいるのは柿の木に留まって実をつついている2~30羽で、残りは自分の番を待つかのように近くの電線に留まっている。

 その柿の木は我が家の玄関から10メートルほど離れたところにあって、私が玄関前に立って鳥たちを観察していても、鳥たちは食べることに夢中らしく、私がよほど大きな物音を立てるか木に近づかない限り、私のことなど全く無視である。そこで私はこの鳥たちの写真を撮りたいと思った。でも玄関からでは鳥を見上げる角度なるので背景は空、逆光で鳥は黒く写ってしまう。そこで2階の窓から写すことにした。

 そこからだと5メートルほどの距離だし、ほぼ水平方向なので光線の具合もよい。ところが、だ。私が窓に近づくと鳥たちはいっせいに飛び立ってしまう。その後すぐに帰ってくることもあるが、カメラを構えるとまた飛び立つ。よほど警戒心が強いらしい。そこで一計を案じて窓のカーテンを閉め、その隙間からレンズを出すようにした。それでもちょっとでもレンズを動かせば飛び立つ。周りに動く物はいっぱいあるのにカメラに特に反応するのはなぜなのか? カメラの動きを鳥がどのように察知するのか? ムクドリの警戒心には舌を巻く。

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                                    ほうれい線


 人間の顔にはほうれい線というものがある。鼻の両側から口の両側に延びる、頬の筋肉と口の筋肉の境界のような線だ。ところが、私は最近妻に教えてもらうまで、このことばを知らなかった。妻の言うところによると、女性は年とともにこのほうれい線が目立つようになるので、それをなくすこと、あるいは目立たなくすることが美容のポイントなのだという。これまで私は人間には誰でもこのような線があるものだと思っていた。たいていの漫画や似顔絵にも描かれているではないか。

 そこで、女性アイドル達の写真を見てみると、たしかにほうれい線は目立たなかった。でもそのことで彼女たちがきれいだとか、可愛いとかも思わなかった。彼女たちの厚化粧への嫌悪感もあったからかもしれないが、ほうれい線のない顔は、むしろノッペラボーの不気味な顔のように見えた。今振り返ってみると、私は頬にえくぼができる女性や口の周りにきりっとしたほうれい線のある女性を魅力的だと感じていたように思う。

 それでは、女性がなぜほうれい線を気にするのか。自分が若く見られたいのに、ほうれい線が目立つと年令を感じさせるから、それを目立たなくしたいと思う気持ちは分からないではない。でも私にはそれ以外の理由は思いつかない。インターネットで「ほうれい線」と検索すると、ほうれい線隠しの化粧品や整形手術の広告のオンパレードだ。それをを見て、女性たちがこういう商業主義に乗せられているのではないかとさえ私は感じた。もちろん、何を好むかは人それぞれだから私の好みを押しつけるつもりはないが、女性はもっと自分の顔に自信を持って欲しいと思う。深いほうれい線の刻まれた顔も、その女性の誇るべき年輪ではないかと思うのである。

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                                   オランダの冬


 最近「オランダの冬」ということばがあるのを知った。1944年から1945年にかけての冬、ナチスに占領されていたオランダで西部を中心に450万人が飢餓状態に陥り、2万人ほどが餓死したという事件だ。この話を読んで私がすぐに思い浮かべたのはパレスチナの現状である。イスラエルの侵攻を受けているガザも食料や医薬品が調達できず、しかもイスラエル軍の攻撃で多数の民間人が犠牲になっている。このまま行けば餓死者や戦死者が増えてオランダの冬以上の惨劇になるのは確実だ。いや、すでにそうなっている。

 ところで、オランダの冬にはもう一つ注目すべきことがある。そんな飢餓の中で4万人ほどの赤ちゃんが生まれたのだそうだが、その子ども達の中には成長してから肥満体になる人が多かったというのだ。しかも、そのような体質はさらに子から孫へと受け継がれたのだという。これまでの生物学では、生物が後天的に獲得した性質は遺伝しないというのが定説だったのだが、遺伝子に付随する物質のわずかな変化が子孫に受け継がれることもあるという、エピジェネティックな現象らしい。

 生物学においてすらそうなのだから、社会的な敵対意識や偏見は間違いなく世代を超えて受け継がれる。ナチスがユダヤ人絶滅を画策した裏には民族間の敵対意識やドイツ人こそが最も優れた民族だという思い上がりがあった。さらに、ユダヤ教、キリスト教、イスラム教という宗教的な対立感情も見逃せない。ナチスの最大の犠牲者であったイスラエルの人々が、今、ナチスと同じように振る舞い、オランダでは極右政党への指示が広がっているという。私たち人類は社会的な偏見を断ち切る力を持っているはずなのにそれが発揮されていないのだ。

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                       あげる・してあげる


 こどもやペットに対して「~をあげる」とか「~してあげる」とか言うことがある。私はそういう言い方に対して違和感を持つことはないのだが、私の妻は「あげる」というのは謙譲語だから、こどもやペットなど、いわゆる目下の存在に対して使うのはおかしいというのだ。妻は高校の国語の教師で、特に古文の専門家だからそういうのもわからないではない。「ことばは時代とともに変わるものだから」と一定の留保は付けながら、それでもこういう言い方には違和感を感じると妻は言う。

 では、どう言えばいいのかと訊くと、「やる」とか「してやる」とか言うべきだというのだ。私は「やる」とか「してやる」というのは汚いことばのように感じるし、尊大な印象もあるので、使いたくない。妻は「やる」と「あげる」は使う対象が違うだけで、美しいか汚いかの違いではないという。でも、私が「やる」を汚く「あげる」を美しく感じるのは事実で、それは、長年の間、目上の人と目下の人に対してことばを使い分けてきた歴史の中で「美しい」「汚い」という印象がこれらのことばにしみついた結果かもしれない。

 歴史的な経過がどうであれ、私は「あげる」という言い方に謙譲語のようなへり下った雰囲気は感じない。「あげる」というのは何かを与えるということだから、与える方が与えられる者よりも優位性を持っているという感じさえある。それが行きすぎると、謙譲どころか、尊大で恩着せがましいという印象を与えることもある。しかし、そうだとしても、「あげる」「してあげる」ということばには相手を包み込むような暖かさ、おおらかさを感じるので好私はきだ。こどもには「本を読んであげたい」し、ペットの犬小屋は「温かくしてあげたい」。

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